Loading...
MENU

大阪まるわかり

堺の食文化

包丁

調理に欠かすことができない包丁。『もののはじまりみな堺』といわれたほど、鉄砲や織物などの製造も堺でいち早く始められたが、 堺の刃物の発展は豊臣時代から徳川時代の初期にかけて。昆布を削っておぼろ昆布にする包丁は「アキタ」と呼ばれる刃先を曲げる作業を行ってから削っていきますが、 そのためには鋭い切れ味と、昆布に吸い付くようなしなやかさを併せ持つ包丁が必要です。この難しい要求に応えることが出来たのも、 600年続く堺刃物の技術があったためと言えます。堺伝統産業会館には「堺刃物ミュージアム」があり、堺市内各所の刃物製作所には堺打刃物の技が息づいています。

茶の湯

抹茶を用いてお茶をたて、客に振る舞う茶道、茶の湯は、日本が誇る芸道の一つです。鎌倉時代、栄西によってもたらされた抹茶は、 禅宗寺院を中心に普及し始め、お茶の樹の栽培から蒸し製法のノウハウも広まっていきました。南北朝時代になると、各地の茶を飲み当てる闘茶が、 武士階級に浸透。そんな娯楽性の強いお茶に対して、禅の思想の影響を受け、世俗を離れた生き方を理想とする侘び茶のスタイルが発生します。 それはまず、村田珠光により、唐物中心だった茶道具に、日本の信楽や伊賀などの素朴な茶陶を取り入れた「茶禅一味」を旨とする侘び茶の源流が創案されます。 この思想は、国際貿易で大きな富を得た堺の商人たちに受け入れられ、広まっていきました。こうした堺の町衆の中に武野紹鴎(たけのじょうおう)や、 その弟子の千利休がいました。利休によって侘び茶は完成され、武士階級に流行し、現在の茶道へと繋がっていくのです。 茶の湯の文化が発展した街として、 堺ではお茶請けのお菓子づくりも盛んになり、400年以上の歴史ある和菓子店が今なお営業しています。また現在、 堺市では、茶の湯を通じて「おもてなしの心」を広げる条例も施行されています。

※千利休画像(堺市博物館蔵)

千利休

安土桃山時代の茶人、侘び茶の大成者にして「茶聖」とも称される千利休。その生家は、堺の港で舶来品を預かる倉庫業を営む商家でした。 19歳で、武野紹鴎に師事し、70歳で非業の死を遂げるまで51年を茶の道に捧げた人です。 時の権力者、織田信長や豊臣秀吉の茶頭として活躍し、 天下一の茶の宗匠とも讃えられました。「高価なものや名物は要らない」と、ムダをそぎ落とし、禁欲的な茶の湯のあり方を説き、 それまでよりも小さな茶室「草庵茶室」を作り、「一期一会」という精神世界、総合芸術としての茶の湯を確立した利休。 その名は、「利休箸」という箸の形や、「利休鼠」という色、「利休焼き」という料理法など茶の湯のみならず、日本の伝統に大きな足跡を残しています。 また「草庵茶室」は、日本建築にも大きな影響を与えました。 彼の完成した茶の湯「侘び茶」のスタイルは、その後の茶の湯へと受け継がれ、 子孫は、茶道の三千家として続いています。

一覧に戻る
一覧に戻る